Vol.001 「バロウズの妻」

今回が第一回目のCINEAST!
わたくし橘 春香と、川崎 三木男さんが映画について自由にトーク。
宣伝のためのトークではないので、過大評価いっさいなし!
さてさて第一回目は「バロウズの妻」。いったいどんなトークがくりひろがったのでしょう・・・・?

何故、バロウズの妻は愛する夫に射殺されたのか。
これは伝説のカルト作家ウイリアム・S・バロウズの妻ジョーンに初めて光をあてた知られざる愛の物語である。
メキシコシティで妻とその娘ジュリアと貧しい生活を送っている最中の出来事だった。
今まで何度もやって来たように、ジョーンは頭の上にグラスを載せ、バロウズは発砲する。
そして誤ってジョーンを殺してしまう。同性愛と麻薬、酒と孤独。そして満たされぬ 藍の生活・・・。
ゲイリー・ウオルコウ監督は「裸足のランチ」の原型と言うべきバロウズとジョーンの苦悩を美しい映像に結晶させた。
( −パンフレットより−)
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ゲイリー・ウォルコウ監督/ コートニー・ラヴ、ノーマン・リーダス、ロン・リビングストン、キーファー・サザーランド/ 製作総指揮:アヴィ・ラーナー+ウイリー・ベアー+ダニー・ディムボート+トレバー・ショート/ 製作:ドナルド・ザッカーマン+アンドリュー・フェッファー+アラン・シルバー/ 脚本:ゲイリー・ウォルコウ/ 撮影:サイロ・カベーロ/ 音楽:アーネスト・トルースト/ ミレニアム・ピクチャーズ+ペンドラゴン・フィルム製作/(2000年/アメリカ映画/35mm/カラー/93分/ビスタ/日本語字幕:松浦美奈)/ 提供:丸紅株式会社/ 配給:M3エンタテインメント/ at ユーロスペース



川崎:
(以下K)

最初にこの映画を観ないかって言いだしたのは、僕のほうだった。
普段僕は監督で映画を選ぶようにしているのですけれど、この人の作品は観たことがなかったし、当たり外れっていうか、外れかもしれないっていうのもあってね。
 …それで、あなたはどうだったかなっていうのがね、まず。(笑)

橘:
(以下T)
なにしろバロウズだし、その妻だし、タイトルがどうにも、色々ありそうだなと思ってたけど、割と妻の気持ちになって、普通 の映画として観ましたね。

K: 僕も、余りにも普通の映画だったなっていうのがあります。

T: バロウズとかビート世代とかが好きな人には、ファン心理として、「これが書くきっかけになったんだ」っていうところで面 白いんだろうなって思ったんだけど、私は、「妻の話」として観ていて、そうしたら妻以外の人の気持ちが全然分からなかった。

K: なんかねえ。
 このまま具体的な話題に入る前に、ふつう例えば映画の話する時には、よくその映画のジャッジをするじゃないですか。でも映画をジャッジするためには、そのための尺度っていうか物差しが前提になるでしょう。人によってそこが違うから、お互いにどんな映画観を持っているのか、共通 の物差しについての提案をしてみたい。良い悪いは別として、映画をツー・タイプに分けて考えてみるところから。
 「アート」と「エンターテインメント」みたいな、芸術と商売という分け方もよくあるよね。デニス・ホッパーは、映画を「ムービー」と「フィルム」の二つのタイプに分けて考えている。映画の中での話になるけど「シェルタリング・スカイ」っていう映画の冒頭のシーン(※この映画はビートニクの先代にあたるポール・ボウルズの原作)では、<旅人>は「ツーリスト」と「トラベラー」とに分けられると語ってる。そういう風に、同じに見えているものの中にある、大きく二つに分けられるような違い、が<映画を観る>ことにも存在している。
 例えば泳ぎに行こうかっていう時に、プールに泳ぎに行くのと海に泳ぎに行くのとでは、同じ泳ぐことであっても全く違う体験になるでしょう。この映画はプールなのか、海なのか、そういう前提を僕自身はいつも自分なりに持っているように思う。当然僕は海の方に行きたいのだけれど、この映画の場合どうだったのか。はっきり言うと、この映画はプールだった。

T: そういう例えでいうと私も見に行くときは、今日の映画は海っぽい感じだろうなと思って向かいましたね。

K: ポスターも結構凝っているし、”バロウズの妻”って言う記号があったでしょう?しかもインディペンデントの監督にコートニー・ラヴという組みあわせ。最近のビートニックのブームが背景にあって宣伝にものせられて、僕もちょっと観たくなったのだけど。結果 は、残念ながらビートニックな海には泳ぎに行けなくて、期待はずれのプールでしかなかった。
 
T: 私がバロウズの妻になって観てたのも、すごい有名な、特別 な人たちの集まりの話、なんだけど、だけどそれをバロウズの妻に焦点を当てて見ることで、特別 な人たちの結構人間的なところが出てきて、「なんだ、やっぱり人間なんだ」「ああいう人たちもね、生きてる、傷付く人間なんだよ、文学だってそうだよ」。そんな感じで繋がっていくのかな、そういう切り口の映画なのかな、という期待があったからなんだけど・・・。

K: そうだね。僕はビートニックがすごく好きでね。映画に描かれた二つの事件、1944年にニューヨークで起こった事件と、1950年か1951年かに起こったメキシコの事件。この二つの事件のことはいろんなものの中で読んでいるものだから、実際映画としてそういうものは観ていないのだけれど、自分の中にはそれを映画で観たような、フィルムの記憶のようなものがすでに存在していてね。自分も一人の目撃者であったみたいな気持ちがあるから、それを映画化したこの作品に対して、関心、好奇心がありすぎるほどあった。
 パンフレット読むと、この監督は、ビートニックの資料や事件を虱潰しに調べて、できるだけ事実に忠実に作ったって書いてあるね。でもこの監督には、ヒロソフィーが無いと思う。事件の事実関係を調べ上げて、脚本を書いて、現実的にこんな事件が起こったっていうことを、テレビ・ドラマのように再現してみせて、そこから、「なぜバロウズは妻を殺したのか?」「それがきっかけで彼は小説家になったのか?」的なオチに持って行くという・・・。そんなのは無意味だと思う。何の為にこの映画作ったのみたいな(笑)テーマがどこにあるのかよくわからない。

T: ちょっと分らないんですよね(笑)だからさっきの話の続きで言うと、結局ビートっていう文学のことにもそれほど触れてなくて、心理描写 も出て来ない、じゃあ何なんだ?って気分になる。それぞれのすごい人がいて、そりゃもうすっごい人たちのはずなのに、大して魅力を感じなかったんですよ。それは、彼らがどういう心境なのか全然分らなかったから・・・。

K: 冒頭のシーンからすごく唐突だったね。場面 の時代も場所もよくわからない。大平洋戦争が終わる前の年、1944年のニューヨークが描けていない。衣装だけで時代を表現しようとしても、それだけじゃね。
 「シン・レッド・ライン」っていう映画の中で、南方の戦地にいるアメリカの海兵隊は、その頃日本軍と必死に戦っている。当時のアメリカではそんな若者がいる一方で、ニューヨークには少数かもしれないが、ドロップ・アウトしている学生達が居る。戦争に行くのも嫌だし、社会に対してもポジティヴになれない、どちらかというと裕福な連中。
 日本では、健康な若者は兵隊に取られ、学生たちも学徒動員されて特攻隊に行かされ、一億総玉 砕、国民全体がもう戦争と共に滅びていくような、そういう気分が支配していた。それなのにニューヨークはいたって平和な訳ですよね。退屈した学生達が、ドラックにはまったりしながら、これからどんな人生を送るか、未来が見えずに彷徨っている、そんなシュチエーションからビートニックは出発した。そこにどんな時代のスピリッツが働いていたのか。その時代の、バロウズの妻や、バロウズが実際どんな生活をしていたのかは、彼らの文学やその世界を考える上で興味のあることなんだ。その時まだ彼らは何者でもない。そんな彼らが出会ったことから、ビートニックが生まれる。彼らがどんな風に世界を眺めて、どんな風に生きようとしてたかということは、ものすごく大きなテーマだと思うのですよね。ところがそういうものに対してこの監督は、全然触れる気持ちが無いわけ。

T: うん、無いですね。そういう時代背景が後あったなんて、映画を観てもわからなかった。

K: だからあなたが言うように、単に夫とウイリアム・テルごっこして殺された妻の話みたいな(笑)

T: みたいに見える(笑)

K: ビートニックのフィロソフィーには触れないで、夫が妻の眉間を撃ち抜くという事件に全てを語らせようと凝縮しちゃったんだね。この監督としては、そのために役者をうまく当てはめて、役者にそれぞれ実在の人物の、その存在としてのキャラクターの表現を宿題として与えたかったのだろうけれど。だから、主な登場人物を、バロウズとその妻と、ルシアン・カーとアレン・ギンズバーク、この四人に絞ったのだね。三人の男と一人の女の関係と事件を、テレビでやっている「知ってるつもり」みたいに。でもその世界を多少知っている人間としては、いろんな点で役者に不満がある。かといって知らないで観て、その背景に辿り着く糸口のようなものも見つけられないとしたら、「なんて浅くて小さなプールだろう」みたいな感じになっちゃうかもしれない。
 最初のシーンから無理があったね。ゲイの友だちに言い寄られたルシアン・カーがその友達を殺すくだり。この事件の現場はニューヨークのハドソン川。ところがこの映画を観た時に、その場所のリアリティーがまるで無かった。何故かなぁって思ったら、ニューヨークのシーンを撮る予算が無くて、ほとんどメキシコ・シティーで撮っちゃったから。だから、ニューヨークのあの時代のリアリティーという重要なポイントが描けない。時代劇でありながら。
 「麻雀放浪記」(※阿佐田哲也原作)っていう映画は、戦後のドヤ街を生き生きと描くという和田誠さんの主張があった。ギャンブラー坊や哲の生き様が、敗戦後の東京のドヤ街を背景に描いてあった。日本ではビートニックは存在しなかったけれども、阿佐田哲也には、同じ時代を放浪している、共通 のスピリットを感じるね。これを見れば、それをビートニックとは呼ばなくても、日本にも確かにそういうものがあったなって思う。それじゃこの映画をね、例えば上野や新宿のドヤ街をね、ソウルや台北で撮ったら?みたいな(笑)そういう違和感がある。映像そのものの無理がね。

T: 本当あれは分らなかったなぁ。あの時間帯って、どの登場人物が誰なのか覚えてる時間帯なんですよね。「あぁこれがルシアンか」とか覚えてる時に、突然血まみれになって帰ってきても、「なんで殺したんだろう!?」という感じ。
 そして!始めっから終わりまで腑に落ちなかったのは、何故みんなルシアンに魅かれるのかが、ずーっと理解できなかったこと。
   ルシアン・カーは男性にすごい好かれて、バロウズの妻も好きになるでしょ?相当格好良い人なんだろうなって思ったんだけど、あの役者は、彼自身には魅力があるとは思うけど、ルシアン・カーには見えなくて、どうしても。
 言ってみれば、よろめきドラマだった。何故よろめくのか分らなくて「なんでこの男にかなぁ?」って、そのことばかり気にかかる作りになってから。だけどよくよく考えたら、多分この役者だからそういう印象になったんだなぁ。ルシアンは、バロウズより十歳下で、イキイキしてるっていうキャラクター設定だと、ああいう感じで演じるのかなって気もするんだけど、なんか顔立ちから私の想像してるルシアンとは違うような気がした。

K: 僕はギンズバーグ演じた役者が結構よかった。あの人はなかなかいい味出して演じていたと思う。
 残念なのは、ビートニックの世界にとって重要なキーワードであるはずのドラッグの描き方。バロウズのジャンキーとしての出発点がそこにあるのだし、彼の凄さは、この文明都市におけるドラッグのカリスマ、ティーチャーとして偉大さでもあるというのに、一切それが省かれちゃっているわけ。

T: 所々に「あっそうだ、ビートニックだった!」って思い出したかのように「彼は才能があるし」とか「そして彼も才能があるし」っていう台詞が、ぽっぽっと出てきたんだけど、「へ?」っていう感じでね、なにを根拠に、才能があるとか魅力があるって、噂話をしてるのかが、なんかしっくりこない。急に聞かされたような感じ。やりようによっては、「彼は才能がある」なんてセリフを入れなくても、映画を観ているうちに、自然にそう思えるんじゃないかなぁっていう気がするんだけど。それまで素敵なセリフがそんなに無くて、普通 のセリフをかわしてて、急に詩人っぽい感じになったり、「川を見てると引き込まれて向こうの世界にいっちゃうよ」なんて、あのシーンだけ死を思わせるでしょ?安っぽい。そういうのがもうよろめきドラマだと思う(笑)

K: (笑)まったくそうだよね。
 あの時代まだフェミニズムが存在しなかった時代だから、いたるところにマッチョな男が多いよね。マッチョな時代だから、ビートニックの仲間というと、ゲイも含めて男の世界みたいに語られていて、女性の仲間が基本的に出て来ないわけ。みんなで一緒に遊びまわる時には、ドラッグでもセックスでも女性が居たのに、女性の存在感がものすごく弱い。男同士は遊び続けるのに、遊び続ける女がいない。だから今回のバロウズの妻に期待したのは、ビートニックの女性として認められている数少ない女性、妻の側からどういう風にビートニックな運動に対する解釈が出るのかなって気になったし、役者がコートニー・ラヴだから、それに対する期待も少なからずあった。でもそれらは全て期待外れに終わっちゃった(笑)

T: 私は勝手に、この映画は、バロウズみたいな、あんなドラッグ野郎の奥さんなんて、耐え難くて、クレイジーさに振り回されまくるようなイメージでいたんだけど、でもやっぱりコートニー・ラヴがやるんだから、そんな訳なくて、「女性」じゃなくて「人間」としての妻なのかなって思ったんだけど。

K: そのへんが出し切れなかったよね、あの脚本だとね。

T: せっかく顔とかね、体とかね、あんなに

K: かっこよかったのにね。存在感ものすごい強くて。フィルムのなかの存在感はすごいよね、役者としての存在感は。適役だったと思うけど。

T: でもやっぱりこの進行では・・・

K: ニューヨーク時代のバロウズは、さっき話したようにバイセクシャルだった。当時のバロウズは結構女も好きだったよって誰かが言っていた。だからバロウズは、もともとゲイの部分は非常に強かったかもしれないけど、ジョーンとバロウズの関係は、最初からゲイの男とノンセックスで一緒になったのかっていうとそうではなくて、このときは男と女の関係で一緒になったのだろうし、子供だってつくっているじゃない。このよく解からない男女の関係をどう見せてくれるのか、そこも期待したけれど。男三人と女一人の関係の、複雑なセックスと愛の問題が描かれない。ぜんぜん、セックス・シーンも出てこない。

T: 出てこない。

K&T: (笑)

K: バロウズが自分のゲイの若い友だちと、南米のどこかへ旅行に行った時に、男同士のベット・シーンはあるけれどね。

T: 毛むくじゃらでなんかねえ。胸出して横たわって毛布かぶって・・・

K: 全然リアリティーのないベット・シーンだし(笑)

T: メキシコのアパートのシーンに飛んだとき、バロウズとジョーンが結婚してるっていうことに、驚いた、かなり(笑)タイトルがタイトルなんだから知ってるのに!それでも「なんでだ?」って思っちゃって。もう子供もいるし。だけどその後、ルシアンがよりを戻したくなるのも「なんでだ?」って。だから私にとっては本当に気持ちが分らない。

K: 本当のところ、ルシアンはジョーンのことを本当に愛していたのかどうかもよく分らないよね。ただ昔の仲間のところへ遊びにいっただけなんじゃないかって(笑)なんか寂しかったから、よりを戻してセックスしようか〜みたいな。でもそれをなんか、「ニューヨークに連れて帰らなくちゃいけない」とか、特別 な純愛の問題にするのは、ちょっと変でしょ?バロウズはバロウズでお互いもっと自由にしようよっていうのが基本的にあるわけだし。もっと、なんて言うのかな、もっと進んだ男と女の関係をビートニックな同志として認めあって、それがセックスの問題も、彼らはもっと進んでいたと思うのに、映画のようなあんな古い純愛路線でもって、三面 記事のようなテーマじゃなくてもね。

T: ね。バロウズが、ナイフをお土産にね、買ってくるでしょ?それを家に帰ってきてシャキーンってやって、そしたらジョーンが、「ルシアンはそんなナイフを持ってた」ってつぶやいて、そしたらバロウズが、泣いたりして。泣くのはルシアンのあの事件を思い出してなのか、ジョーンがルシアンに今心魅かれてることにちょっと傷付いたのか、なんでなんだか。

K: 本当にね。この脚本そのものにすでに無理があるのに、さらにそれをつまらなくしているのは、バロウズの妻はルシアンに対する想いに引き裂かれていますと、川に飛びこんだりして死の願望のようなものを持っているように暗示してみせて、あざといオチに結びつけているところ!そういうまるでつまらない脚本と演出が映画をだめにする。

T: しちゃった!

K: もうけなすところばっかりだね(笑)

T: 初回にしてね。でも、もったいない。コートニー・ラヴだし、ギンズバーグの役の人も良かったしね。もう一回台詞書き直して、脚本書き直してやったらもっと全然ねぇ

K: いい映画になる。
 役者は良かったと思うよ。結局どこに金かけたかっていうと、役者だけにちょっと金かけてつくった映画だよね。映画っていうのは簡単に低予算つくれちゃうよっていうサンプルのようなつくり方。いい役者だけ呼んでくれば、あとは本があればという。この監督はサンダンスの出身と聞いたけど、彼らはみんなメキシコでつくりたがる。低予算の映画を作ろうとなると、みんなメキシコへ行っちゃうわけ。予算がなくてもこれだけの映画が作れますよっていう教科書のように作って、インディペンデントの監督を起用して、今ビートニックブームだから、こういうテーマでやればちょっと商売になるんじゃないかっていう、すごく安易な商業を考えている連中が映画に関わっているのじゃないかなぁ。勝手に想像しているだけだけど。しかしこの題材にに感心をもって、演じることに喜びを持っていた役者達もいて、彼らがこの映画の救いの部分かなって思うけど。

T: なんかこう、私ケルアックの「路上」を読んだことあるんですけど、高校生の時に一回ビートニックの流行りがあったから。まあその時はそれっきりになっちゃって、でもこの映画を観たらもう一回読む気になるかもって思ったのに、そこまでは思わなかったな。

K: 僕もそう感じていたから、あなたに今日ひとつプレゼントを持ってきた。


T:
え〜、ポスター!すごい!


▲これがホンマモンのバロウズとその妻!
K: これがホンマもんのバロウズとその妻。

T: わ〜ホンマもんだぁ。

K: これはメキシコの事件の後、ニューヨークの新聞の一面 に出た記事なんですがね。全然リアリティーが違うじゃない。

T: 違う!こっちの方が私感動してる。あの2時間よりこっちの方が感動しちゃうな。

K: この小さな新聞の写真の中にいろいろ見えるものがあるよね。

T: この方が重いな。なんでだろうね、やっぱり本人の顔だからかな。
重い顔、重い顔。


K:
(映画の方を指して)写 真としてはこういう方が綺麗だし、ファッションだし。すごくパンフレットもかわいいし。そういう意味ではいい宣伝しているかもしれないけれど。



▲今回の映画のためのパンフレット。
T: でもこっちの新聞のをパンフレットにした方が観に来ると思う。やっぱドキっとする。本人だから。
(パンフレットを指して)でもこれはこれで可愛いけど。メモ帳仕立てになっていて。

K: これらは今の時代の受け取り方?コマーシャリズムからすれば、商売にできればいいってことの方がポイント高いよね。
 だけどビートニックって何だったの?っていうのはもっと重たい問題でしょう。そこにはすごく熱い魂があって、それらがぶつかり合いながら、あの時代のスピリッツと踊りながら、あの連中が探求していた世界。人間がどこまで自由に狂えるかっていうような実験。
 アートをやる人間は、そこからとことん自由になりたい。バビロン・シティの外へ飛び出そうという冒険、そういう実験をビートニックの連中はやった訳でしょう。まだ何者でもない彼らが世界の再創造を目指す旅と遍歴。
 アメリカが日本に原子爆弾を投下して戦争が終結、それは同時にアメリカの資本主義が非常に大きく伸びていく時代でもあった。高度成長に向かっていく中で、一般 の大衆はアメリカン・スタンダードを謳歌する。そういう世の中に異議を唱え、異端としてそこからドロップ・アウトしていった彼ら。単純に言えば文学的不良青年なのだけど、その連中が車で西や南の方へ旅にでる。アメリカをドラッグしながら精神的な遍歴を求めて遊び回った連中が、詩や小説を書きだす。  それをドキュメント風の文学として最初にレポートしたケルアックが、「オン・ザ・ロード」でビートニックを世に知らしめることになる。50年代、彼は新しい文学の旗手としてもてはやされた。ギンズバーグはその時まだ無名の詩人だった。60年代になってバロウズとギンズバーグが出て来た。
 ギンズバーグのすごさは、詩人を超えて、その後のヒッピー・ムーブメントに繋がって行く思想の潮流の中でもずーと時代のスピリットと踊り続ける。時代のスピリットの働きによって、そういうものが、ある日突然巨大化する。それをカウンター・カルチャーとも呼ぶけれど、ある時それに火を付ける役目の人間がどうしても必要で、そういう運動をギンズバーグがずっとやってきた。そこが彼のすごいところだと僕は思っている。
 今日の映画の話を、こきおろしてきたけれど、本当はできたら海で泳ぐような映画の話をしたい。プールをこきおろすよりは、テーマとしては「ああ映画だ!海だ、永遠だ!」っていう話をしたいわけよ。でもまぁ最初に選んだ映画がね、こういう映画だったから、こんなふうに始まったけど。

T: この手のが、一番、海なのかプールなのかも全然分らなくて、池かもしれない。今後も先入観無しでいくから、度々あるでしょう。

K: 映画っていうのは基本的に感情移入する体験が大きいから、映画との出会いは、年令だけではなくて、観る側のコンディションの具合によってもその出会い方が全く違ったものになると思う。感情移入できるアートとしては、美術とか他のものよりも音楽に近いし、ものすごく深く感情移入できるアートだと思う。
僕は映画に入りこんで、できるだけその映画に翻弄されたいわけ。

T: されたい!そう思う

K: 映画館に入って、映画館のなかに入る前と出てきた自分が違う。それはひとつのイニシエーションの門をくぐったみたいな、そういう映画に出会いたい。それは願望として。それだけ映画に期待感を持っている。それが映画中毒の、映画ジャンキーの、スタイルだと思う。

今回はふたりともシビアな意見で一致してしまいました。
(ほんとにけなしまくりでした。)
次は「ああ映画だ!海だ、永遠だ!」と自由に泳ぎ回れる映画に出会えることを期待!
始まったばかりのCINEAST 、次回はどうなることやら、お楽しみに!!

 

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